
「現在、事業拡大のためにマーケティングへ巨額の投資をしており、最終利益もEBITDAも赤字である。しかし、売上高(トップライン)は前年比2倍で急成長している」
特にSaaS(Software as a Service)やプラットフォームビジネス、ディープテック分野のスタートアップでは、このような財務状況が標準的です。
当然、利益がマイナス(赤字)の企業には、前述の「EV/EBITDA倍率」や「PER(株価収益率)」といった、利益をベースにしたバリュエーション指標は使えません。分母がマイナスになってしまうからです。
では、赤字のスタートアップはどのようにして何十億円、何百億円という企業価値を論理的に証明し、資金調達やM&Aを行っているのでしょうか。その答えが「EV/Revenue(EV/売上高倍率)」です。
本記事では、赤字スタートアップの命綱となる「EV/Revenue倍率」の定義、なぜSaaS企業で多用されるのか、そして実務での正しい使い方について解説します。
1. EV/Revenue倍率(EV/売上高倍率)とは?
EV/Revenue倍率とは、企業の売上高に対して、EV(企業価値)が何倍になっているかを示す指標です。一般的には「売上高マルチプル」や、株式価値ベースの指標である「PSR(株価売上高倍率)」に近い概念として語られます。
数式は非常にシンプルです。
例えば、あるSaaSスタートアップの年間売上高(あるいはARR:年間経常収益)が3億円で、EV(企業価値)が30億円と評価された場合、EV/Revenue倍率は「30億円 ÷ 3億円 = 10倍」となります。
この指標の最大のメリットは、「現在の利益が赤字であっても、売上という確固たる実績をベースに、企業の価値を他社と比較・評価できる」点にあります。
2. なぜ「株式価値ベース(PSR)」ではなく「EVベース」なのか?
日本のスタートアップ界隈では、よく「売上高倍率」として「PSR(株価売上高倍率 = 時価総額 ÷ 売上高)」という言葉が使われます。しかし、よりプロフェッショナルなM&Aの実務や海外の機関投資家との交渉では、PSRよりもEV/Revenueが好まれます。
なぜなら、PSR(時価総額ベース)は、その企業がどれだけ借金(負債)を抱えているかを無視してしまうからです。
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時価総額10億円・売上2億円・無借金の「X社」 ⇒ PSR:5倍
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時価総額10億円・売上2億円・借入が5億円ある「Y社」 ⇒ PSR:5倍
PSRだけを見ると、両社とも「5倍」で同じ価値に見えます。しかし、買収する側の視点に立つと、Y社は5億円の借金を引き受けなければならないため、実質的なコスト(EV)は15億円に跳ね上がります。EV/Revenueで計算すると、X社は5倍、Y社は7.5倍となり、Y社の方が実質的に割高であることが一目で分かります。
だからこそ、財務構造のブレを排除して、純粋に「売上高を生み出す事業そのものの価値」を評価するために、EV/Revenueが使われるのです。
3. なぜSaaSスタートアップで「EV/Revenue」が絶対視されるのか?
SaaSをはじめとするサブスクリプションビジネスモデルにおいて、EV/Revenueがバリュエーションの主役に君臨するのには、このビジネス特有の経済合理性(ユニットエコノミクス)があります。
① 「赤字」は事業の失敗ではなく「投資」であるため
SaaS企業は、顧客を1件獲得するために最初に大きなコスト(マーケティング費用や営業人件費などのCAC)を支払います。しかし、獲得した顧客は毎月・毎年、継続的に利用料(リカーリングレベニュー)を支払ってくれます。
つまり、「売上が増えれば増えるほど、短期的には顧客獲得コストがかさんで赤字が掘り進むが、将来の黒字の山(ストック収益)が確定していく」という構造を持っています。現在の赤字(利益の無さ)を理由に企業価値を低く評価するのは、このビジネスモデルの本質に反するため、利益ではなく「売上(およびその成長率)」をベースにするのです。
② 将来の利益率(限界利益率)が予測しやすいため
SaaSビジネスは、一度ソフトウェアを作ってしまえば、顧客が1件増えたことによる追加コスト(売上原価)がほとんどかかりません。一般的に、成熟したSaaS企業の営業利益率は30%〜40%に達すると言われています。
そのため、「現在の売上高」さえ分かれば、将来その企業が成熟したときにどれほどの利益を生み出すかが、他の業種よりも高い精度で予測できます。だからこそ、売上高にマルチプルを掛ける手法が信頼されているのです。
4. EV/Revenue倍率を決定づける「成長率」と「Rule of 40」
では、自社のEV/Revenue倍率は何倍が妥当なのでしょうか?
かつて(2021年のスタートアップバブル期など)は、マルチプルが「20倍」「30倍」といった異常な高値をつけることもありましたが、現在の資本市場ではより規律ある評価(5倍〜15倍程度が中心)へと回帰しています。
この倍率の上下を決定づける最大の要因は、「売上高の成長率(Growth Rate)」です。
同じ売上3億円の企業でも、前年比「120%成長」の企業と「200%成長」の企業では、EV/Revenue倍率は全く異なります。
ここでよく使われるグローバル共通の指標が「Rule of 40(40%ルール)」です。
売上高成長率(%) + 営業利益率(%) > 40%
この合計値が40%を超えているスタートアップは、非常に健全かつ魅力的な成長を遂げているとみなされ、EV/Revenueマルチプルにおいて相場以上の高評価(プレミアム)を得ることができます。例えば、利益率がマイナス20%(赤字)であっても、成長率が60%であれば「合計40%」となり、高いマルチプルを主張する資格があります。
5. まとめ:トップラインの「質」が問われる時代へ
利益が出ないフェーズのスタートアップにとって、EV/Revenue(売上高倍率)は自社の価値を最大化するための強力な武器です。
しかし、注意しなければならないのは、ただ売上を増やせばいいわけではない、ということです。
投資家や買い手は、その売上の「質」を厳しく見ています。解約率(チャーンレート)が高く、バケツに穴が空いたような状態で作った売上や、粗利益率(グロスマージン)が極端に低い売上の場合、いくら額面が大きくてもEV/Revenue倍率は低く見積もられます。
「高い成長率」と「質の高い売上(高粗利・低解約)」を証明し、適切なEV/Revenue倍率を勝ち取ること。それが、赤字フェーズのスタートアップ経営者が目指すべき財務コンテキストです。
勝ち取るための、最強のディフェンスでありオフェンスなのです。

