
「VCから提示されたバリュエーションの根拠が分からない」
「M&Aで自社を売却したいが、買い手に対していくらで売るのが妥当なのか、ロジカルに提案したい」
スタートアップの経営において、自社の「値段(評価額)」をいくらに設定するかは、その後の企業の運命を左右する最重要事項の一つです。しかし、未来の予測が困難なスタートアップにとって、理論的な企業価値を算出するのは容易ではありません。
そこで、実務において最も頻繁に使われ、かつ強力な説得力を持つ手法が「マルチプル法(類似会社比較法、通称:Comps)」です。
本記事では、スタートアップの経営者やCFOが、投資家や買い手企業との交渉の場で主導権を握るために、マルチプル法を使って自社のEV(企業価値)を算定する実務ステップを、どこよりも実践的に解説します。
1. マルチプル法(類似会社比較法)とは?
マルチプル法とは、一言で言えば「市場の相場(類似する上場企業の評価)を参考にして、自社の価値を逆算する手法」です。
不動産の売買をイメージしてください。自分が持っているマンションを売りたいとき、過去の複雑なキャッシュフローを計算するよりも、「近所の同じ築年数、同じ広さのマンションがいくらで売れているか(坪単価の相場)」を調べる方が、手っ取り早く、かつ買い手にとっても納得感がありますよね。
ファイナンスの世界でも全く同じです。
自社とビジネスモデル、ターゲット顧客、成長フェーズが似ている上場企業(類似会社)をいくつか選び出し、それらの企業の「EV/売上高」や「EV/EBITDA」の倍率(マルチプル)を、自社の財務数値に掛け合わせることで、客観的な企業価値を割り出します。
なぜスタートアップで重宝されるのか?
スタートアップの価値算定手法には、将来のキャッシュフローを予測して現在価値に割り引く「DCF(ディスカウント・キャッシュフロー)法」もあります。しかし、DCF法は「3年後の売上予測」などの前提条件を少し変えるだけで、結果が2倍にも3倍にもなってしまうため、交渉の場で「机上の空論」になりがちです。
一方、マルチプル法は「現在、実際に株式市場でついているリアルな株価」をベースにするため、投資家(VCや買い手)との間で最も合意形成がしやすいという特徴があります。
2. マルチプル法によるEV算定の4つの実践ステップ
それでは、実際に自社のEV(企業価値)を算定する流れを、ステップを追ってシミュレーションしてみましょう。
今回は、「黒字化達成間近の、日本のSaaSスタートアップ(自社)」をモデルにします。
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自社の直近通期売上高:2億円
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自社の手元現預金:5,000万円
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自社の銀行借入(有利子負債):5,000万円(※ネットデットは±0円)
ステップ1:類似する上場企業(ピア・グループ)を選定する
まずは、自社と「似ている」上場企業を3〜5社ピックアップします。選定の基準は以下の通りです。
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ビジネスモデル: SaaS、サブスクリプション型、BtoB
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ターゲット市場: 企業のバックオフィス向け、あるいは特定の業界特化(バーティカル)
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財務特性: 売上高成長率が同水準(例:前年比30%〜50%成長)
ここでは、類似の上場企業としてA社、B社、C社の3社を選んだとします。
ステップ2:類似企業のマルチプル(倍率)を調査・計算する
選定した各社の現在の「EV(時価総額+ネットデット)」と「年間売上高」を調べ、EV/Revenue倍率を算出します。
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類似A社: EV 100億円 ÷ 売上 10億円 = 10倍
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類似B社: EV 48億円 ÷ 売上 8億円 = 6倍
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類似C社: EV 64億円 ÷ 売上 8億円 = 8倍
ステップ3:基準となる「平均マルチプル」を割り出す
選んだ3社の倍率の平均値(または中央値)を計算します。
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平均値:$(10 + 6 + 8) \div 3 = $ 8倍
これにより、「現在の日本の資本市場において、我が社と同ジャンルのSaaS企業の事業価値は、売上高の概ね8倍が相場である」という客観的なベンチマークが手に入りました。
ステップ4:自社の財務数値に掛け合わせて「EV」を算出する
いよいよ、自社の売上高にこの相場(8倍)を適用します。
これで、自社の論理的なEV(企業価値)が16億円であると算定できました。
ここから株式価値(時価総額)を求める場合は、ネットデットを考慮します。今回はネットデットがゼロ(負債5,000万-現預金5,000万=0)なので、「株式価値(株主への提示額)も16億円」となります。
3. 実務で勝つための「スタートアップ・ディスカウント」と「プレミアム」の攻防
上記のステップ4で「16億円」という数字が出ましたが、実際のVC交渉やM&Aの現場では、この数字がそのまま通るとは限りません。ここからが「交渉(ネゴシエーション)」の領域です。
① 非流動性ディスカウント(スタートアップ・ディスカウント)
買い手や投資家からは、必ずと言っていいほど「上場企業はいつでも株を売却できる(流動性がある)が、未上場のスタートアップの株はすぐに売れない。だから、上場企業の相場(8倍)から20%〜30%割り引くべきだ」という主張がなされます。
これを「非流動性ディスカウント」と呼びます。仮に30%ディスカウントされると、16億円 × 0.7 = 11.2億円になってしまいます。
② ディスカウントを跳ね返す「プレミアム」の主張
経営者としては、このディスカウントを黙って受け入れる必要はありません。以下のような「上場企業を凌駕する自社の強み」をロジックとしてぶつけ、マルチプルを引き上げる(またはディスカウントを相殺する)交渉を行います。
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成長率の圧倒的な高さ: 「類似上場企業の平均成長率は20%だが、我が社は前年比80%で成長している。したがって、マルチプルは8倍ではなく12倍が妥当である」
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高いチャーンレート(解約率)の低さ: 「我が社の製品の月次解約率は0.5%以下であり、競合よりも顧客生涯価値(LTV)が極めて高い」
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独自の知財・技術: 「他社が参入できない特許技術を保有しているため、将来的な市場シェアの独占が見込める」
4. まとめ:数字の「根拠」を持つ者が交渉を制する
マルチプル法は、数式自体はシンプルですが、「どの類似会社を選ぶか」「どの財務指標(売上か、EBITDAか)を使うか」によって、導き出される金額が大きく変わります。
投資家から言われるがままの評価額を受け入れるのではなく、自社に最も有利、かつ論理的に説明可能な「類似会社グループ」と「マルチプル」のパッケージを、経営陣自らがシミュレーションしておくことが重要です。
「市場の相場は○倍であり、当社の成長プレミアムを加味すると○倍、ゆえに今回のバリュエーションは○億円を希望します」
この一言を自信を持って言えるだけの準備を行うこと。それこそが、スタートアップが資本市場という戦場で正当な評価を勝ち取るための、最強のディフェンスでありオフェンスなのです。

